2019年05月26日

なぜ偏差値の高い学校を目指すのか?



なぜ偏差値の高い高校や大学を目指すのか?


街を歩けば「〇〇高校 〇名合格!」
いったような塾の広告を見かけます。


偏差値の高い高校や大学。
そこに入ることは一種のステータスでも
ありますし、誇りになる場合もあります。


でもそのためだけ?


意外と「偏差値の高い学校に入る意味」
を真剣に考えたこともなく、ごく当たり前
に目指している人もいるかもしれません。


そしてその反対に・・・・


「偏差値だけが学校じゃない」


なんていう人も案外いるものです。
もちろんそういう面もあると思います。


私は偏差値の高い学校を目指す意味は、
「自己肯定感を高めるため」が主な目的
だと思うことがありました。自己肯定感
は何も勉強だけでできるものではないのは
百も承知なのですが、それでも難易度の
高い高校や大学に入る意味というのは
そこにあるんじゃないか、と思っている
ところがありました。





でも最近もう一つ大事なことに気付きました。


それは


にわか知識ではない、本当の知識・教養は
一朝一夕にには身につかない。
にわかではいずれメッキがはがれる。
でも世の中にはにわか知識でえばってる
輩が意外と多い。

にわかではなく本物の知識・教養で物事を
見るためには、本当にレベルの高い人達が
集まる場所に行かないといけない。

だから偏差値の高い学校を目指すのだ。



ということです。


一度でも本物のレベルの空気を吸うと、
にわかな人をみるとすぐ分かる。

だから本物が多くいる、レベルの高い
場所を目指さないとダメなのです。



偏差値だけがすべてではありませんが、
どうせやるなら本物の高いレベルを
身につけるよう努力すること。
これはとても大事だと思うのです。



posted by ごくう at 22:55 | Comment(0) | 勉強 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2019年05月05日

令和は「身の丈にあった堅実さと生活感」が大事な時代



昭和、平成と来て令和。
令和時代はどんな時代になるのか
考えてみます。


ここ数日、私はこんなブログを書いて
いました。


今さらだけど「佐賀のがばいばあちゃん」
(2019/5/2)


狭い世界で見栄を張るアホらしさ
(2019/5/3)


どちらの内容も


・堅実に生きろ
・身の丈にあった生活をしろ
・見栄を張るな


ということです。


私が思うに現在40歳以上位の
人は、「見栄のかたまり」
ような人が多い気がします。
60歳以上になるともう本当に
ひどい。もう見栄が服を着て
歩いているような人が結構いる。


こういう人たちは、年を重ねて
そうなったのか、それとも
時代の流れの中で親や周りから
そう教えられてきたのか、その
あたりは分かりませんが、どち
らにしてもとにかく自分を良く
見せようと必死な感じ
がします。





このような人たちを私は


見栄っ張りファンタジー


と呼んでいます。
「ファンタジー」と呼ぶのは
職業・収入の割には何か生活感
が感じられず、ファンタジーの
世界に生きているような感じが
するから「ファンタジー」と
呼んでいるのです。


「生活のための見栄っ張り」なら
まだ理解できます。
ボロは着てても心は錦、心まで
貧乏にならないために、生活の
部分で少し見栄を張るのなら
まあしょうがないかなと思う。


ただ、今の(昭和から平成の)
「見栄っ張りファンタジー」
場合は、生活感を出さないように
するための見栄っ張りだったり、
自分のみを良く見せようとする
見栄っ張り
だったり、とにかく
「心そのものが貧乏」という感じ
がして仕方ありません。


生活感を出さない見栄っ張りは
芸能人の方ならそれでいいかも
しれません。芸能人や俳優という
職業はそういうものだと思います。


しかし一般的な人がファンタジー
のために見栄を張ってはいけない
と思います。これをやってしまう
とただの「穀つぶし感」が出て
しまって、かえってみっともない。

格好悪いだけなんです。





思えば昭和末期から平成はそういう
時代だったと思います。
身の丈にあっていないのに、見栄
だけ張ってそれっぽく見せている。

それが恰好いいと勘違いしてしまった
そんな時代。


平成は昭和の遺産(富)でそれが
何とかできた人もいた時代ですが、
令和になったらもうそれも無理
そうです。



だって大学の奨学金を借りている
学生がわんさかいるとか、ロス
ジェネ世代が40代に入ってきて
親の面倒を看るどころか自分の
面倒すらみれない、とか、平均
年収がずっと400万円台前半とか、
もうかなりオワコンな感じが
出てきてるじゃないですか。


そんなオワコンな感じでも
生活感がしっかりあればまだ
救いはあると思いますが・・・。



生活感とは、結婚して子供を
産んで、子育てをして、基本
毎日自分達でごはんを作って
それを家族で食べる。多くの
人の人生のベースは生活の中
にありますから。



でももうそれすら危うい。


まともな生活感もなく、でも
見栄だけは一人前に張りたい。
そんなの続くわけないですよ。


だから令和という時代は


「身の丈にあった堅実さ」


これが大事になるんだと思います。
これは昭和末期〜平成時代の
反動です。良い方向に向かう
のではないでしょうか。




posted by ごくう at 15:38 | Comment(0) | 「生きる力」日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2019年05月03日

狭い世界で見栄を張るアホらしさ


まずは記事の引用をご覧ください。

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「優秀なら優秀、ばかならばか、金持ち
なら金持ち、貧乏なら貧乏、はっきりして
くれっていうの。そこそこのやつって、
フリばっかりで過ごしちゃう。そんなのが
日本人の大多数だからなあ」



引用:日刊大衆
ビートたけしに学ぶ…「令和時代に“1億
総中流意識”は不要」だった!!

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以前からずっと思っているのですが
私の会社の同僚でも親族でも何かと
サラッとお金を使う人がいて、その
お金の使い方に「?」と思うことが
多いのです。


例えば私の母親のことで言えば、
父親(母からしたら配偶者ですね)
が入院していて完全に介護状態で、
かつ母親もたいして収入が無いの
にもかかわらず、孫(私の子供で
すね)に小遣いを人/1万円も
あげてしまう。



さらに言えば私の同僚で子供が
高校生〜大学生という一番お金が
かかる時なのに、会社の若い子に
頻繁に飲み屋で奢ってしまう。



こんなことはごく普通にある光景
なので、私の方こそが違うんじゃ
ないか、という声も聞こえてきそ
うです。






でも・・・。
これらのことは「孫がかわいい
から」とか「若手にはお金を出さ
せるわけにはいかない」という
話じゃないと思うんです。



もっとリアルさを出すために詳細
を言えば、母の場合は父の入院
費用がヤバいということで私が
かなり援助しています。さらに
いうといまだに住宅ローンも
残っていてその支払いもキツイ
とボヤいている。


会社の同僚はと言えば、私より
役職が低いのでそんなにお金が
無いはず。それで子供が高校〜
大学で費用がキツイキツイと
毎日のように言っているのに、
若い子には飲み代を奢って
しまう。


これらは全部大阪弁で言うと
「ええかっこしい」、つまり
「見栄っ張り」。



ある程度の地位・立場の人なら
見栄が必要な時もあるでしょう。
でも、ある程度の地位・立場の
人ほど不思議と見栄を張らない
から不思議です(笑)。


見栄を張る人ってどちらかと
いうと社会的立場の弱い人、
強いコンプレックスを感じて
いそうな人ほど見栄を張って
しまうような気がします。

それも狭い世界で(笑)。





引用記事のビートたけし氏の
コメントはまさにその逆。
つまらない見栄なんて張る
必要ないでしょ?
と言っている
感じです。


令和の時代はもう一億総中流
どころじゃないっていう時代。
なのにいまだに自分がそこそこ
にいると勘違いしている。



この勘違い、見栄、ええかっこ
しいを補正しないと、いつまで
たっても辛いままな気がします。
少なくとも人生に見栄は不要。
そこに早く気付いた方がいい
気がします。




posted by ごくう at 12:30 | Comment(0) | 「生きる力」日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2019年05月02日

今さらだけど「佐賀のがばいばあちゃん」



無料のマンガアプリに


「がばい 佐賀のがばいばあちゃん」


があったのでずっと読んでいましたが
ついに全話読み終わりました。


ブームになったのはもう何年も前に
なりますが、この話は漫才師の島田
洋七氏の子供の頃の話です。
とても貧しい生活ながらも、明るく
楽しく「がばいばあちゃん」と生きる
姿は現代にもとても通じるものがある
と思いました。まさに「真の生きる力」
です!



何でいまさら「がばいばあちゃん」かと
いいますのも、私は長野県出身ですが
帰省するたびにつくづく思うのは


日本はどんどん貧しくなってるなあ
特に地方はひどい



ということです。


もう帰るたびに思い知らさせる。



例えば・・・・

・20年前より明らかに軽自動車に
 乗っている人が増えた。

・シャッター商店街どころではなく、
 そもそも商店街自体が消滅していて
 普通の家に変わっている。

・病院には人がいっぱいだけど高齢者
 しかいない。

・若い人、子供が本当にいない。


とまあこんな感じです。


そういう私も地方を出て都会で仕事
をしている身ですので、偉そうなこと
はとても言えないのですが、それに
しても地方の衰退はひどい。



いや、もしかすると元々がこうだった
だけで、高度成長期がたまたま栄えて
キラキラしていたにすぎなかったのか
もしれない。
そうも考えられます。





いずれにしても日本は1965年あたり
から1995年くらいまではキラキラ期
だったのが、今やキラキラに見える
のは都会くらいなもので、地方から
衰退がどんどん始まっている国。
その都会だってキラキラしている
ように見えるだけで、決して裕福
とは言えないのが現状ではないで
しょうか。



そんな時代に生きる我々はこの
「がばいばあちゃん」の教えは
とても役立つものがあるように
思います。
もう「がばいばあちゃん」の
貧しさを笑っていられない感じ
さえしますし。


いいかげん日本は裕福モードの思考
から抜け出さないといけない。もう
すでに貧しさモードにならないと
5年後、10年後さえ苦労する時代に
なってきていると感じます。

令和になったとお祭りムードで浮か
れているのはこの大型連休中くらいに
して、「がばいばあちゃん」でも
読んで貧しいモードを先取りして
おく必要があるのではないでしょうか。





posted by ごくう at 15:45 | Comment(0) | 「生きる力」日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2019年04月14日

正しい自己肯定感が大事


生きていく上でとても
大事なもの、それは
自分に対する自信、
つまり自己肯定感です。


自己肯定感が無いと
何をやっても不安で、
やったとしても手応え
も無く、つまらなく
思えてしまうのでは
ないでしょうか。


それだけ大事な自己
肯定感
ですが、さらに
大事なのは自己肯定感
があったとしても、
その自己肯定感を
作った土台は本当に
正しいものか、
そこを
振り返る必要があるか
と思います。






自分より低い人とばかり
つるんで築いた自己肯定感、
明らかに王道ではない道
で作った自己肯定感は
本物の自己肯定感では
なく偽物ですから、
すぐにポキッと折れて
しまいます。



こういうのは自己肯定感
とは言いません、ただの
自己陶酔、自己満足だと
言えます。


正しい自己肯定感は他人を
必要としません。
自分の中
の戦いに勝利して、それが
積み重なって本物の自己
肯定感になるのです。


この本物の自己肯定感を
人生でいかにたくさん
持つことができるか。

そこが幸せを感じるポイ
ントとなるような気が
します。




posted by ごくう at 10:12 | Comment(0) | 「生きる力」日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする